貞観年間、武蔵国司蔵宗卿叛逆す。 (『江戸名所図会』より)
(深大寺村)深大寺
村の中程より南に寄てあり。今寺領50石の御朱印を賜ふ。天台宗、
東叡山の末、浮岳山昌楽院と号す。天平5年の建立にて、開山は
満功上人なり。古は法相宗なりしが、貞観年中恵亮和尚住職の時
改宗せしと云。慶安3年の2月第五十七世弁盛上人の記せし縁起あり。
其の文の略に、聖武天皇の御宇当所柏野の里と云は、今の佐須村の
ことなりしとぞ。其里に右近某と云長者あり。狩猟をこのみて
鳥獣そこはくの生命を害せり。曾て妻女を求めんとして、普く
遠近を尋けれども、心に協ひし者を得ず、ある時いつこともなく
一人の女来りて、やとの妻とならんことを請ふ。その名を問へば
虎と云と答ふ。天成霊質ありて百美自ら備れり。己に夫婦となりて
より、常々夫を諌て殺生の業因の甚きことを諌む。ここに於て
少しくそのことを信じて殺業を止たり。その後一女を生む。巳にして
年十二三に及ぶ比、たまたま童子福満と云者ありて、かの童女を慕ひ、
しはしは文書をよせしかば、終に密通の識を得たり。この福満もと
誰か家の子と云ことも知らざりしかば、父母かなしみにたへずして、
禁ずれどもやまず、ここに於て湖中の鳥をたづね、宮室を営みて
童女をかしこへ移り住しむ、童子これを知りて尋至らんとせしかど、
船筏なければその所に渡るべからず。よりて三蔵玄奘師の流沙河を
渡られし古を思ひ、水神深砂(或は真蛇)大王を祈りて誓へるは、
もしわれ湖水を越ることを得ば神明を崇め祭りて、長く湖水の主とし、
且当郷の鎮守と仰ぎ参らせんと誓ひしに、丹心空しからず、忽ち霊亀
浮み出ければ、それに乗して難なく島に至りけり。双親かの善神の
冥助あることを感じて、ついに婚姻のことゆるしけり。程へて
ひとりの男子を儲けたりしに、いと聡明にして天機発越せり。
長ずるに及んで大夫語て云、我昔大願ありしが未果さず、汝早く
釋門に入て父母の恩を報ぜよと。ここに於て薙髪して南京に至り
大乗法相を学び、広く白法の深義を窮めて本国にかへり、ついに
当山をひらく。満功上人これなり。孝謙天皇天平勝寶2月17日の暁、
神水中の岩上に降ります、是寅月寅日時なり、然りしよりこのかた
寅の日を以て当寺の吉日とす。その岩は今逆川にありしとぞ。然れ
共其尊容いかんなること知らざりしが、たまたま新羅より船来の
画像ありければ、これを法とし彫せんとせしが、又霊木を得ざるを
憂ひけり。然るに夜中に声ありて告を蒙り、近きほとりの多摩川に
つひて浮木をもとむ。これを見るに桑木三條なり、採かへりて
一刀三禮し同体三尊を刻しに、同7月3日成就せり。これを武野羽の
三州に分ちて崇めまつれり。その一は則当寺境内に祀るもの是なり。
廃帝の御宇、願ひによりて勅額を浮岳山深大寺と賜へり。依て
大般若経を転読せしめらる。これを永式として、鎮護国家の道場
となる。平城天皇御宇、更に勅して四海安康を祈誓せしめらる。
清和天皇貞観年中、当国の国司蔵宗叛逆の聞えありし時、
恵亮和尚(812-860)に勅して密に幽伏の法を修せしめられ、
和尚勅をうけて当国に遊び、国分寺に至りて勝地を求め
五大明王を本尊として調伏護摩の法を修しければ、
忽凶徒降伏せり。
帝大にめでさせ玉ひて、当山を賜ひ、且寺領として七邑を寄附せらる。
世に深大寺七村といへり。かくて和尚は当山の寺務を以の故に相宗を
改て永く台教の宗門に帰せり。是より以来燈々相傳へて繁盛、他寺に
異なり、しかのみならず源家の祈願所として東国第一の密場たり、
別当大行寺十二坊、無常道場別所等いよいよさかんなり。又傳ふ、
この後当寺えあづかりし皃童のことによりて、その父鎌倉将軍の家人
たりしが、寺門へ乱入して放火せしにより、堂塔以下悉く灰燼となり、
さばかりの仏閣一時に廃亡せり。遥の後世田ヶ谷吉良家、当時の
衰廃を歎き、やがて再興ありて、当郷を以て供料に充て、且並平行安が
造し太刀を内宮に納められしにぞ。再び寺門の面目をぞ施しける。
然るに天正18年小田原北条家滅亡の時、世田ヶ谷も共に没落せしかば、
ふたたび当寺も危ふかりしに、東照宮守護不入の御判物を賜ふと云々。
その後正保3年の春回祿にあひて、経琉・霊佛・霊宝及諸梵記・
縁起等ことごとく烏有となれりと云々。今の堂宇は皆この後の再建なり。
(新編武蔵風土記稿より)
『江戸名所図会』深大寺城跡は武蔵国司蔵宗卿の館跡
【難波田弾正城址】深大寺大門松列樹の東の方の岡をいふ。 土人は城山と呼べり。いまは麦畑となるといへども、ここかしこに 湟池の形残れり。この地は往古清和帝の御宇、蔵宗卿武蔵の国司 たりしとき、ここに住せられたりし旧館の跡にして、天文の頃、 上杉朝定の家臣難波田弾正忠広宗、松山の城の出城としてここに 城郭を構へたりしなり。