在原業平といえば下記の3首が思い浮かぶ。あと、もう一首の名作があります。
ちはやぶる神代も聞かず龍田川唐紅に水くくるとは
『古今和歌集』『小倉百人一首』
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
『古今和歌集』
名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
『古今和歌集』
大原野神社が舞台。昔、大学の授業で教授が話していたこと。
おそらく「ちはやぶる」の背景についての講義で藤原高子が在原業平に
「着ていた衣を脱いで贈ったエピソード」を話されていた。それが下着のようなものとのこと。
「在原業平」「白き綾」「下着」「伊勢物語」で検索しても、まったくヒットしない。
『大和物語』161段
「御車のしりより、奉れる御単衣の御衣をかづけさせたまへりけり」
半日かけて、上記の文言を見つけた。伊勢物語 第76段(小塩の山)ではなく、大和物語だった。しかし、これだけでは下着と確定できる情報にはならない。
貴族からのごほうび
https://www.shikibunosato.com/f/monogatari68
「王朝文学には貴族が目下の者に褒美を与える場面がよく描かれます。 気前のよさは貴族の美徳と考えられていたようです。何か催し物がある場合には絹織物などが人数分用意されますが、臨時の場合や出先の場合は用意がないため、
着ているものを脱いで与えていました。」
大和物語の「御単衣の御衣」とは寒い時期に最後に羽織るようなものでは無く、下着に近いものだったのだろうか?。「脱いで与えてる」ことが珍しくないとしても何着も脱いでから下着に近い服を与えるということは考えにくいが。
※2月, 如月(きさらぎ), 旧暦の2月は現在の3月半ばなので、寒さがぶり返し脱いだ衣を更に着る月という意の「衣更着」が「きさらぎ」の語源になったという説。平安時代の牛車内での暖房には、主に火鉢(火桶)が使われていました。
牛車の中には火鉢があるので現代人が思うほど厚着では無かったのかも知れない。着ていたものを脱いでかづく(褒美の品として衣服を肩にかけて与える。)ということ。肩にかけたという描写が生々しい。
堀江マサ子 『源氏物語』空蝉の単衣と小袿の位相
https://ferris.repo.nii.ac.jp/records/353
「源氏が三位中将と文作りや韻塞などをした折の出来事である。衣を脱いで褒美として与えた後の、源氏の単衣から肌が透けて見える美しさである。かづける褒美の衣に、習慣として自分の単衣は入れない。なぜなら単衣はそれを着用する人との境界でありながら、そうであるが故に、その人の一部ともなっているからだ。」
上記の論文にあるように、源氏物語研究のなかには「かづける褒美の衣に、習慣として自分の単衣は入れない。なぜなら単衣はそれを着用する人との境界でありながら、そうであるが故に、その人の一部ともなっているからだ。」という記述が見られる。
源氏物語より数十年前に成立している大和物語での「御単衣の御衣」を与えるという記述は当時の読者には刺激的であった可能性が高い。
嘉祥4年頃(850年頃)藤原基経(父は長良、藤原淑子の異母の兄、836~891)を
藤原良房が養嗣子に迎える。基経は後に、妹の高子を清和天皇に入内させる。
日本史上初の関白。
貞観2年(860年)藤原淑子(22歳、838~906)藤原氏宗と結婚
貞観8年(866年)藤原高子(25歳、842年-910年)入内し女御となる。
元慶3年(880年)在原業平(825年-880年)死没。55歳。
元慶4年(881年)清和天皇(850年-881年)崩御。高子39歳の時。
寛平3年(891年)藤原基経、死没。享年56。
寛平8年(896年)藤原高子(54歳)宇多天皇の時代、元慶年間に自らが建立した
東光寺の座主善祐と密通したという疑いをかけられ、
皇太后を廃される。
※高子が「春宮の御息所」と呼ばれたのは貞観11年(869)~貞観18年(876)
※女性二人とも68歳まで生きた
二条后と在原業平 その文学史的役割 片桐洋一
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chukobungaku/77/0/77_11/_pdf/-char/ja
「二条后と在原業平は伊勢物語大和物語に語られているような恋人同士としてではなく貞観期における最も革新的な和歌集団の要となった二人として把えられるべきでないかと思う」
しかし、伊勢物語研究の第一人者とも言える片桐洋一氏の指摘では在原業平と藤原高子の若い頃の出来事が「フィクション」であるとされ、大原野行啓さえも「フィクション」とされている。
『伊勢物語』第六段「芥川(あくたがわ)」の一首
白玉か 何ぞと人の 問ひしとき 露と答へて 消えなましものを
かけおちをしたが、高子の兄の藤原基経に見つかり、高子を会えない場所に移されてしまう。「自分も露のように消えてしまえばよかったのに・・」と歌う。馬で遠くまで逃げたのであろうか、かけおちの場面の臨場感と二人のはかなさを現した伊勢物語の第六段は名作だと思う。
正史から見ればフィクションとされるが、正史など実際に起こったことが無かったという証明にはならない。これから文学に親しむ世代の若者には正史と矛盾するからと言って「文学の味わいを損ねること」がないようにお願いしたい。
正史(せいし)は、国家が公式に編纂・認定した歴史書。『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』の六国史を指す。
角田文衛「二条の后 藤原高子」
https://www.genki-shobou.co.jp/books/4-901998-02-1
熱愛する業平に体を与えたことも純粋さのためであって、彼女は愛情を覚えない年少の清和天皇の女御とななることなどはには、少しも惹かれていなかった。兄・基経の勢威に対抗して天皇親政を取り戻すことは、律令体制の原理に基づくところであり、少しも俯仰天地に恥じる行為ではなかった。しかし妥協を許さぬ彼女のひたむきさは、結果的には重大な不幸を招いたのであった。
『伊勢物語』 第106段「龍田川」 百人一首17番
ちはやぶる神代も聞かず龍田川唐紅に水くくるとは
古今和歌集の詞書には「二条(にでう)の后(きさい)の春宮(とうぐう)の御息所(みやすどころ)と申しける時に、御屏風(みびゃうぶ)に龍田川に紅葉流れたる形(かた)を描きけるを」とあります。
大阪市立大学教授であった角田文衛氏は片桐洋一氏が「フィクション」とされていることに反論はしていない。しかし、正史だけでなく関連資料や人々の血のつながりなどの関係性・親密度などを元に二人の関係が事実であった事を証明しようとしている。みなさんが大好きな「ちはやぶる」の古今和歌集の詞書には「二条の后」と書かれています。重要なことは、ただ屏風を見て歌ったのではなく「二条の后」の屏風であったことです。このように文学の背景を知ることはその鑑賞を豊かにするのです。以下は、参考にさせていただいたサイトです。ありがとうございました。
『古今和歌集』を考える
https://o-kawaji.info/kokin/colum/20230701.html
これらの5首については、いずれも、二条后高子が「春宮の御息所」時代であることで一致している。「御息所」とは、天皇、もしくは皇太子の皇子を生んだ后のことであって、高子の場合、その時代は、清和天皇の第一皇子貞明親王(後の陽成天皇)の皇太子時代ということになる。貞明親王の皇太子時代は、貞観11年(869)~貞観18年(876)のことであった。
伊勢物語の魅力と謎を五十有余年をかけ
https://www.izumipb.co.jp/files/pamph/23442.pdf
密通事件はフィクション
二条后藤原高子が在原業平と深い男女の関係をもっていたと
いうことを信じている研究者は今もいる。しかし、これは、現
存本『伊勢物語」の記述を、そのまま事実と見ての認識であっ
て、単純短絡の誇りを免れるものではない。
たとえば、現在通行している藤原定家書写本系統の『伊勢物
語」では、二条后という名は五箇所に見える。
※以下に引用の本文は、定家天福二年本によるが、句読
点を施し、適宜漢字をあてるなど、校訂を加えた。
*二条后の、まだみかどにもつかうまつりたまはで、ただ
人にておはしましける時のことなり。(三段)
*二条后にしのびてまゐりけるを、世の聞こえありければ、
せうとたちの守らせたまひけるとぞ。(五段)
申これは、二条后の、いとこの女御の御もとに、っかうま
つるやうにてゐたまへりけるを、かたちのいとめでたく
おはしければ、盗みて負ひていでたりけるを、御せうと
堀河のおとど・太郎国経の大納言、まだ下臓にて、内へ
まゐりたまふに、いみじう泣く人あるを聞きつけて、と
どめて取り返したまうてけり。それを、かく鬼とはいふ
なりけり。まだいと若うて、后のただにおはしける時と
や。(六段)
のように、それぞれの章段において、物語の内容が語り終えら
れた後に、「実は、この物語の女は、二条后なのである」とい
うように、追加的に説明が加えられている場合が多く、そうで
ない場合は、第七六段の
昔、二条后のまだ春宮の御息所と申しける時、氏神にまう
でたまひけるに、近衛づかさにさぶらひける翁、人々の禄
賜はるついでに、御車より賜はりて、よみて奉りける。
大原や小塩の山も今日こそは神代のことも思ひ出づらめ
とて、心にもかなしと思ひけん、いかが思ひけん、知らずかし。
が、『古今集』雑上・八七一の
二条后の、まだ春宮の御息所と申しける時に、大原野
にまうでたまひける目、よめる業平の朝巨
大原や小塩の山も今日こそは神代のことも恩ひ出づらめ
を、詞書ともども『伊勢物語」に採取している場合と、第九五
段の
昔、二条后につかうまつる男ありけり。女のつかうまつる
を、常に見交はして、よばひわたりけり。「いかで、物越
しに対面して、おぼつかなく思ひつめたること、少しはる
かさん」と言ひければ、女、いと忍びて、物越しに会ひに
けり。物語などして、男、
彦星に恋はまさりぬ天の川へだつる闘を今はやめてよ
この歌にめでて、会ひにけり。
の場合のように、「二条后」という名が本文中に用いられてい
る章段は、その歌が「古今集』『後撰集』はもとより、「業平
集』の諸本にも見られず、かなり後になってから『伊勢物語』
に加えられたと思われる章段に限られているのである。
これを換言すれば、二条后が在世していた延喜十年(九一
O ) 三月以前の「伊勢物語』は勿論、その二条后が生んだ陽成
天皇(九四三年まで)や式部卿貞保親王(九二四年まで)が健
在であった時期の「伊勢物語」には、「二条后」という名は記
されていなかったと思うのである。つまり、一 O世紀中頃まで
の『伊勢物語』には、東五条の大后邸の西の対に住む女は描か
れていても、「二条后」という名は記されていなかった。二条
后と在原業平の密通は、事実ではなく、『伊勢物語』の享受過
程において広く信じられるようになったということなのである。
三条后が業平を召して歌を詠ませた例は古今集にもう一箇所ある雑上・八七一番の三条の后のまだ東宮の御息所と申しける時に、大原野にまうで給ひける日よめる 業平の朝臣
大原や小塩の山も今日こそは神世の事も思ひ出づらめ
これによってわかることは、二条后が東宮の御息所と呼ばれ
ていた貞観十一年(八六九)から貞観十八年(八七六)の聞に、
后の大原野行啓に従駕した業平がよんだ歌ということだけであ
るが、我々は、この調書をほとんどそのまま利用しながら物語
にした、『伊勢物語』第七六段の昔、二条の后のまだ東宮の御息所と申しける時、氏神に詣づかさおきなうで給ひけるに、近衛司にさぶらひける翁、人々の禄賜はるついでに、御車より賜はりて、よみて奉りける、
大原や小塩の山も今日こそは神世の事も恩ひ出づらめ
とて、心にもかなしとや思ひけん、いかま思ひけん、知ら
ずかし。や、それをさらに語り直した、『大和物語』第百六十一段の
在中将、二条の后の宮、まだ帝にも仕うまつりたまはでた主人におはしましける世に、よばひたてまつりける持、ひじきといふ物をおこせて、かくなむ、
思ひあらばむぐらの宿に寝もしなむひじき物には袖をしつつも
となむのたまへりける?返しを人なむ忘れにける。
さて、后の宮、春宮の女御と聞えて大原野にまうでたまひ
けり。御ともに、上達部・殿上人、いと多く仕うまつりけ
り、在中将も仕うまつれり、御車のあたりに、なま暗きを
りに立てりけり、御社にて、おほかたの人々禄賜はりての
ちなりけり、御車のしりより、奉れる御ひとへの御衣をかづけさせ給へりけり、
在中将、賜はるままに、
大原や小塩の山も今日こそは神代のことも思ひいづらめ
と、しのびやかに言ひけり。昔をおぽし出でて、をかしとお
ぼしける。
を無意識に前提にして、古今集、をも読解しているのではな
し、古今集、の詞書をほとんどそのままに用いているだけのよ
うに見える。伊勢物語、第七十六段の場合でも、業平朝臣、
を、神世の事も思ひ出づらめ、と詠むのにふさわしく、近衛
司にさぶらひける翁、として設定し、昔は我が恋人であった后
の行啓に供人として従駕し、人々の禄賜はるついでに、御車
より賜はりて、よみて奉った歌であると語って、心にもか
なしとや恩ひけん。いかず思ひけん。知らずかし。と語り手の
立場から主人公の心を付度するというように、物語としては納
得できる形になっているし、大和物語では、その神世の
事を二条の后のまだみかどにもつかうまつりたまはで、
ただ人にておはしましける時のことなり?と後書きされている。
伊勢物語、第三段を改変利用して前に置き。きて、后の宮、
春宮の女御と聞えて大原野にまうでたまひける?在中将も仕う
まつれり、というように後半部に続けて、思ひあらばむ
ぐらの宿に寝もしなむ、と詠んだ前半部と対照させて、供の
おほかたの人々禄賜はりてのちに、御車のしりより、奉れ
る御ひとへの御衣を賜はるままに、しのびやかに言った
業平の声を聞いた后が、思ひあらばむぐらの宿に寝もしなむ。
と、かつて自分が詠んだ昔をおぼし出でて、をかしとお
ぼしたと記して、この大原野行啓の場を二人の恋愛の後日
需にしているのである。
絵巻物で読む 伊勢物語
https://ise-monogatari.hix05.com/4/ise-076.oshio.html
伊勢物語絵巻七六段(小塩の山)
むかし、二条の后の、まだ春宮の御息所と申しける時、氏神にまうで給ひけるに、近衛府にさぶらひける翁、人々の禄たまはるついでに、御車よりたまはりて、よみて奉りける。
大原や小塩の山も今日こそは神代のこともおもひいづらめ
とて、心にもかなしとや思ひけむ、いかが思ひけむ、知らずかし。
(神代のこと:天孫降臨の際に、藤原氏の祖先天児屋根命が随従したという故事をさす)
【伊勢物語】冷泉家本 定家本 朱雀院塗籠本 真名本
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%89%A9%E8%AA%9E
伊勢物語76 業平爺さん登場
https://note.com/kotenyomouze/n/n1c1971b9ac4d
試みに『大和物語』の百六十一話と読み比べて考えてみましょう。『大和物語』百六十一話は『伊勢物語』
三段と七十六段をくっつけた内容になっているんです。
在中将、二条の后の宮、まだ、帝にも仕うまつりたまはで、ただ人にておはしましける世に、
よばひたてまつりける時、ひじきといふ物をおこせて、かくなむ、
思ひあらばむぐらの宿に寝もしなむひじき物には袖をしつつも
となむのたまへりける。返しを人なむ忘れにける。
さて、后の宮、春宮の女御と聞えて大原野にまうでたまひけり。御ともに上達部・殿上人、
いとおほく仕うまつりけり。在中将も仕うまつれり。御車のあたりに、なま暗きをりに立てりけり。
御社にて、おほかたの人々禄たまはりてのちなりけり。御車のしりより、奉れる御単衣の御衣を
かづけさせたまへりけり。在中将、たまはるままに、
大原や小塩の山も今日こそは神代のことをおもひいづらめ
と、しのびやかにいひけり。むかしをおぼしいでて、をかしとおぼしける。
藤原高子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%AB%98%E5%AD%90
時の権力者で同母兄である摂政藤原基経や、異母姉でかつ源定省(のちの宇多天皇)の養母だった尚侍藤原淑子と高子は折り合いが悪かった。在原文子(清和の更衣)の重用を含めた高子側の基経を軽視する諸行動が、基経をして後に外戚関係を放棄をしてまでも高子・陽成天皇母子を排除させるに至ったとの見方もある[2]。
ただし、在原文子を更衣としてその間に皇子女を儲けたのは清和天皇自身である。
高子が清和天皇との間に貞明親王(陽成天皇)・貞保親王・敦子内親王を儲けたにもかかわらず、清和は氏姓を問わず数多の女性を入内させ多くの皇子を儲けていたことから、基経も母方の出自が高くない娘頼子を入内させ、さらに同じく出自の低い佳珠子を入内させて自らの外孫の誕生を望んだために、高子の反発を招いたと見ることもできる。
そこに藤原淑子の暗躍を見る説[3 角田文衛]もある。
https://日本の歴史.com/2018/05/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%AB%98%E5%AD%90/
「大原や 小塩の山も 今日こそは 神代のことも 思ひいづらめ」と。
この歌は、「あなたとの恋は、神代ほども遠い昔のことになってしまいました。
けれど、今日この日は思い出していただけましたか?」と、二人の過去を振り返る内容です。
夫・清和天皇が退位したことで、高子は二条院に移ります。
そして、出入りしていた僧・善祐と浮気してしまいます!
この噂が広く知られてしまい、結果、これを理由に皇太后を廃されます……。
宇多天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%A4%9A%E5%A4%A9%E7%9A%87
定省が陽成に王侍従として仕えていた時、殿上の間の御椅子の前で在原業平と相撲をとり二人の体が椅子にぶつかって手すりが折れた逸話が残っている[大鏡]。
父帝光孝は、先代陽成天皇の大叔父にあたり、陽成が不祥事によって退位させられたために即位に至った。
源姓を賜い臣籍降下していた源定省(諱)は基経の仲の良い異母妹、藤原淑子の猶子。
天皇に近侍する尚侍(ないしのかみ)として後宮に強い影響力を持つ淑子が熱心に推したこともあり
皇位を継ぐ。
寛平3年(891年)1月に基経が死去するに及んで、宇多は親政を開始することができた。
なお宇多が勅願寺として仁和寺を建立したのは、この阿衡事件の最中の仁和4年のことである。
後の佐々木氏などに代表される宇多源氏の祖先にあたる天皇。
大原野神社
https://oharano-jinja.jp/
延暦3(784)年、長岡京遷都の際、藤原氏の氏神である春日大社の分霊を祀ったことに始まります。
紫式部や藤原道長も参拝し、その美しい景観から王朝の人々に愛された地で、伊勢物語や源氏物語など、数々の古典の舞台となっています。新古今和歌集には大原野神社の紅葉を詠んだ藤原伊家の和歌があり、古くから紅葉の名所としても知られています。
参道は紅葉のトンネルとなり、鯉沢の池に映る紅葉の朱色は訪れるものを魅了してきました。
大原野神社のご利益は「良縁」「夫婦円満」「女性守護」「玉の輿」です。
実はこちらのご利益は大原野神社の御祭神由来ではなく、大原野神社を春日大社の分社として造った
藤原氏由来のものになります。 「中宮や皇后になれますように」と祈ったそうです。
狛犬さんの位置に鹿さんがいます。春日大社のように本物の鹿さんはいません。とても綺麗な神社です。
(京都御所から西に向かって徒歩で、大原野神社まで3時間30分。)
大原野神社からは「花の寺」として親しまれる勝持寺が徒歩10分と近い。
「西行法師が出家した寺」としても知られており、西行桜と呼ばれる一本桜が有名。
西行法師が出家したのは保延6年(1140)23歳の時。
古今和歌集の部屋
http://www.milord-club.com/Kokin/uta0871.htm
二条の后は藤原高子で、東宮の御息所と呼ばれていた時期は、貞観11年(869)から貞観18年(876)の間。
二十八歳から三十五歳までの時期である。当時業平は四十五歳から五十一歳。
女房装束の着用順序 小袖と長袴の上に単ではなさそう?
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/bunka03_frame1.html
次のような順序で女房装束は着用されます。
緋色(ひいろ,紅色)の長袴をはく。
単(ひとえ)を着る。
単の上に袿(うちき) と打衣(うちぎ)を着,表着(うわぎ)を着る。
最後に唐衣(からぎぬ)を着し,襟を折り返す。裳(も)を背後に垂らす。
畳紙(たとうがみ)を懐にいれ,手には衵扇(あこめおうぎ,檜の薄板39枚でつくられている)を持つ。
袿(うちき) …重ね着が基本でその数によって寒暖の調節を行う衣。袖口や襟元,裾口の色の装飾として用い,その枚数が競われたため,平安時代末期には5枚に限定されました。五衣(いつつぎぬ)ともいいます。
打衣(うちぎ)…絹に糊を引いた衣。柔らかな表着(うわぎ)の下につけて衣紋を整えるために用いました。形状は袿と同様ですが目立たせないために,表着よりやや小形に仕立ててあります。
表着(うわぎ)…下の袿よりも色目・文様を相違する華麗な織物を用います。重ねの色目を襟や袖などの端からのぞかせるために小振りに仕立ててあります。
唐衣(からぎぬ)…禁中に奉仕する女房たちには不可欠な表着の上に着用する腰丈の衣。
裳(も)…後腰に巻き付けて長く裾をひく背面だけの衣服。
○小袿姿(こうちき)…女房装束の略装で,袿よりも裾短に仕立てられた小袿を唐衣の代わりに着したもの。基本的には袿の上に着けるのを本義とし,改まったときには表着を小袿の下に着用しました。また,腰に裳を加える場合もあります。
