鞍馬蓋寺縁起の「蔵宗・蔵安」

京都の鞍馬寺(くらまでら)に伝わる鞍馬寺史『鞍馬蓋寺縁起』(あんばがいじえんぎ)には私案抄よりも詳しい内容で利仁伝説が記述されている。

盗賊については「蔵宗・蔵」と記述されており、「蔵宗卿」との関連を思わせる。しかし「群盗・賊徒・異類・凶徒」と表現され公卿の末裔だとしたら不名誉な扱いである。鞍馬蓋寺縁起には藤原利仁についての他のエピソードが含まれており、説話性が高い。同じ事件を私案抄(武蔵国の深大寺)では「当国ノ国司」と記述しており、鞍馬蓋寺縁起よりも史実に近いものと思われる。

 

第四段 又鎮守府将軍藤原利仁と云ふ人あり、武勇淵偉にして将帥たるに
足れり、突厥の類、歸服せずといふ事なし、爰に下野国高座山のほとりに、
群盗 蟻のごとくにあつまりて、千人党を結べり、藏宗藏安其前鋒たり、
關東よりの朝用雑物彼党類の爲に常に被抄劫 国の蠱害唯以て在之。

第五段 これによりて亦公家有テ評議忽其人をゑらぶに天下の推ところ
編ニ利仁にあり、異類誅罸すべきよし宣旨を下され、利仁精撰を悅と
いへども、尚かちがたき事を恐れて、仍天王の加被を仰で當山に参詣し、
立願祈精ス即チ示現あり、鞭をあげて下野国に進發し、高座山のふもとに
下着す、于時六月十五日 なり、心におもふところありてたちまちに
橇(かんじき)をつくらしむ、やうやく深更に及で、近く腹心の武臣を
めして、天雪降やと問ふ、郎従將略を知ずして、天はれたりと答ぬ。
将軍大ニ怒て忽に劔を賜てころさしむ。

第六段 又少し時をへて他の勇士をめして前のごとく問ふ、前事の
いましめをおもひていつはりて雪ふるよしを答ふ、利仁甘心服鷹ス。
半夜に及で、陰雲四含、白雪高ク積ル萬壑千岩高下を隔ず、徐々至曙ニ天晴
雪止、利仁千里の籌をめぐらして、四方の兵を率して、鹿敷(かつ)を
つけて、鵝毛をおそれず。賊徒飢凍して寸歩することあたはず、利仁
乗勝逐逃ヲ以テ常千、遂に凶徒を切て馘を献ず、これによつて名威天下に
振ひ武略海外にかまびすし、即チ宿願をとげむが爲に、毘沙門天王の像を
造顯す、當寺において開眼供養ス帯するところの劔をとひて大天荘巌の
ためにす、忽夢の告ありて我これを納受せず、彼千人の首をきる劔を以て
我劔たるべしと云々、夢覚て後即施入し奉る、爰に従兵の中、此劔を
好ム者あり遂にやむことなくして、夜中ひそかに寶殿をひらき玉體の間に
ちかづけば腰底の雄劔よもすがら昇降す、仰レ之彌高跛キ踵(シュ)
及がたし、直下在地携ル手ヲ不至、洞天己明ニ、倫兒逃去、仍尊像を
劔惜天王とも號したてまつる、脱其 神剣ヲ蘊納す、寶殿天下在乏窺翫
せずといふこどなし。

 

【鞍馬蓋寺縁起】

大日本佛教全書・119(仏書刊行会)の99ページ目

        鞍馬蓋寺縁起の全文

(上から3枚目の画像、左ページから利仁伝説)

 

 

 

 

深大寺に残る私案抄の「蔵宗・蔵吉」

「貞観年中、当国ノ国司、蔵宗蔵吉、彼兄弟ノ者共、朝敵ト為シ、之時、恵亮和尚」とある。同じ事件を江戸名所図会では「蔵宗」と表現しており、より古い時代の、この私案抄では「蔵宗・蔵」という兄弟として記述されていることが興味深い。

※「吉」は正確にはつちよし(士ではなく土)で筆書きされている

これは、同じく2人の兄弟が登場する伝承「利仁伝説(鞍馬蓋寺縁起)」や「関白神獅子舞」にそれぞれ登場する兄弟の盗賊「蔵宗・蔵」と符合する。

利仁将軍(藤原利仁)は生没年詳であるが、延喜15年(915年)に
下野国高蔵山で貢調を略奪した群盗数千を鎮圧し武略を天下に
知らしめたということが『鞍馬蓋寺縁起』に記されている。
この年には鎮守府将軍となり、その最終位階は従四位下であった
とされる。
(wikipedia)

 

恵亮(えりょう)
802/812-860 平安時代前期の僧。
延暦(えんりゃく)21/弘仁(こうにん)3年生まれ。天台宗。天長6年
義真から受戒し,円澄(えんちょう),円仁にまなぶ。
文徳(もんとく)天皇の皇子惟喬(これたか)と惟仁(これひと)
(清和天皇)両親王が皇太子の位をあらそったとき,惟仁親王のために
祈願したという。のち内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ),
貞観(じょうがん)元年比叡山(ひえいざん)西塔宝幢院の
検校(けんぎょう)となった。貞観2年5月26日死去。
49/59歳。信濃(しなの)(長野県)出身。
(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

 

武蔵野国司が反乱を起こし、後に下野国を拠点として朝廷に対抗していたものか?。いずれにしても、恵亮和尚が亡くなった貞観2年(860年)から延喜15年(915年)までは45年の開きがあり、その国司の2代目、3代目の一族が国司の乱の数十年後に鎮圧されたものと考えることが出来る。貞観の最後の年は19年(877年)であるので、恵亮和尚の没年が正確であるかという考察や、そもそも恵亮和尚が本当に関わったのかどうかも検証する必要がある。

清和天皇は文徳天皇の崩御に伴い、わずか9歳で即位され、その年から貞観が始まったが、実質的に実験を握っていたのは藤原良房であるから、武蔵野国の混乱について比叡山に祈祷を要請したのも藤原良房の意向であったと思われる。この7年後の貞観8年(866年) に応天門炎上事件(応天門の変)が発生する。

国司として派遣された藤原氏の中から、在地勢力と融合するものが出てきて、それが露見した際に、藤原良房と折り合いが付かなくなり逃亡して組織化したものか。その組織が大きくなり、ついに藤原利仁に討伐されたということであったなら、登場人物がすべて藤原であることになる。この時代以降、藤原氏は朝廷の支配が届きにくい地域においての在地勢力との融合(血縁関係など)が加速したものと思われる(平泉の奥州藤原氏はその際たるものである)。私案抄に記載された国司の乱と同じ舞台である武蔵の国では、武力組織を起源とする源氏の武士が頭角をあらわし、武力による統治に優れた時代に進んだものと思われる。

 

拡大版は以下をクリック

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私案抄 国立国会図書館デジタルコレクション 10ページ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533513

 

私案抄を書き残した僧「長辨(じょうべん・長辯とも)」は永享八年(一四三六)に深大寺の宝冠阿弥陀如来像を修補し、その際に胎内に墨書を残したとされる。武蔵野国司蔵宗の乱が起きて500年程度も後の時代で、私案抄の成立はこの前後の事と思われる。


私案抄のテキスト化したものや、現代訳文はこの記事を書いている時点では見あたらない。「狛江市史料集 第1」から私案抄の原文のページをスキャンしたものをアップした(クリックで拡大)。

 

大和真人吉直(2)

真人を姓を賜った氏族が、藤原氏族であるということは無さそうなので、大和真人吉直は武蔵国司蔵宗卿である可能性は低い。但し、「高坐山の群盗千人党 の首領蔵宗 (峯?)蔵安(吉?)」の一員であった可能性は否定できない。

真人(まひと)は、684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓(カバネ)
の一つで、最高位の姓である。基本的に、継体天皇の近親とそれ以降の
天皇・皇子の子孫に与えられた。天皇の称号が道教の天皇大帝に由来する
という説とともに、この「真人」も道教由来のものとする説がある。
八色の姓のなかでは道師も道教の神学用語と重なっている。また天武天皇の
諡(おくりな)の「瀛真人」(おきのまひと)は道教の神学では「瀛州」
という海中の神山に住む仙人の高級者を意味する。

真人賜姓は天武天皇が構想する皇親政治の一翼を担うものであった。
『日本書紀』の天武天皇十三年十月の条に、「守山公・路公(みちのきみ)・
高橋公・三国公・当麻公・茨城公(うまらきのきみ)・丹比公(たぢひのきみ)・
猪名公(ゐなのきみ)・坂田公・羽田公・息長公(おきながのきみ) ・
酒人公(さかひとのきみ)・山道公、十三氏に、姓を賜ひて真人と曰ふ」とあって、
これら公(きみ)姓氏族はおよそ応神 ・継体~用明天皇の皇子の子孫である。
それ以降の天皇・皇子の子孫についても、奈良時代にたびたび賜姓が行われ、
『新撰姓氏録』の載せる真人姓は48氏に昇る(国史にのみ所見のものも
含むと更に増加)。 しかし、時あたかも藤原朝臣による権勢拡大の最中で、
真人=高貴という原義すら崩れ始めていたことも否めず、氷上真人塩焼 ・
厨真人厨女のように一種の懲罰として賜姓される例も現れた。この傾向は
平安時代に一層強まり、802年(延暦21)安世(桓武天皇の皇子)が
良岑朝臣姓を賜ると、皇族や真人姓の中からも朝臣賜姓を望む者が増加。
政治的意義を失った真人姓の氏族は、次第に政界から姿を消していった。
(wikipedia)

【氏族】 【歴史上の人物】

粟田真人
為名真人
茨田真人
英多真人
岡真人
海上真人
甘南備真人
吉野真人
桑田真人
御原真人
御長真人
香山真人
高階真人
高額真人
坂田真人
三国真人 三國眞人大浦 三国真人広見
三長真人
三嶋真人
山於真人
山道真人
山邊眞人 山邊眞人何鹿・山邊眞人猪名
守山真人
酒人真人
春日真人
成相真人
清原真人 清原真人夏野 清原真人瀧雄 清原真人峯成
息長真人 息長眞人麻呂
多治比真人 多治比真人広成 多治比真人国人 多治比真人嶋 多治比眞人縣守 多治比眞人廣足 多治比眞人古奈祢
大原真人 大原真人門部・大原真人桜井 大原真人明娘 正六位上大原真人今城 大原真人室子
大宅真人
大和眞人 大和眞人耳主 大和真人吉直
淡海真人
池上真人
中原真人
登美真人
登美眞人
嶋根真人
当麻真人 当麻真人麻呂 当麻真人大名
飛多真人
氷上真人 氷上真人陽侯
文屋真人 文屋真人長谷 文屋眞人智努
文室真人
豊国真人
豊野真人
路真人
蜷淵真人

大和真人吉直(1)

大和真人吉直について、wikipediaにはページが無い。肥後国と安芸国のページにそれぞれ、国司のひとりとして記載されているのみである。

承和13年(847)に肥後守を任じられている。この時はまだ從五位下であることがわかる。21年後の天安2年の6月に安芸守に任ぜられる際には從五位上となっている。

續日本後紀卷十六 仁明天皇
一.賜尾張濱主位記與伊勢國言上連體嬰状
 仁明天皇
 十三年,春正月,癸卯朔,天皇御大極殿,受朝賀.畢,迴御紫宸殿,
宴侍從已上,賜御被.
 乙巳,天皇朝覲太皇大后於冷然院.
 丙午,烏含傳漏之籤飛去,墮于春興殿上.
 己酉,天皇御豐樂殿,宴于群臣.詔授,無品-時康親王,
四品.從四位上-安倍朝臣-安仁,正四位下.從四位下-正行王,
從四位上.無位-房世王,從四位下.從五位下-弘宗王,
從五位上.正六位上-全世王、益吉王,並從五位下.從四位上-源朝臣-明、
田口朝臣-佐波主,並正四位下.從四位下-藤原朝臣-長岡,
從四位上.正五位下-藤原朝臣-良相、藤原朝臣-岳守,
並從四位下.從五位上-伴宿禰-雄堅魚、橘朝臣-百枝、滋野朝臣-貞雄、
藤原朝臣-諸成,並正五位下.從五位下-藤原朝臣-貞本、
文室朝臣-海田麻呂、藤原朝臣-氏範、石川朝臣-越智人、在原朝臣-行平,
並從五位上.外從五位下-有道宿禰-氏道,正六位上-藤原朝臣-良仁、
安倍朝臣-安立、伴宿禰-益雄益雄,或本作龍男.益雄又見二月壬午條、
滋野朝臣-善蔭、橘朝臣-氏雄、藤原朝臣-行人、紀朝臣-今守、
高階真人-岑緒、橘朝臣-春成、坂上大宿禰-清河、藤原朝臣-秀雄、
大枝朝臣-直臣、田口朝臣-仲根、伴宿禰-御園、賀茂朝臣-江人、
嶋田朝臣-貞繼、佐伯宿禰-真持、大宅朝臣-年雄,
並從五位下.正六位上-都宿禰-貞繼、清?宿禰-園繼、縣連-氏益、
伊福部宿禰-廣友,並外從五位下.宴訖,賜祿有差.
 庚戌,於大極殿修最勝會.
 是日,授四品-賀樂?親王,三品,從四位下-大和朝臣-館子,
從四位上.正五位下-橘朝臣-枝子,從四位下.無位-大中臣朝臣-海子,
從五位上.無位-藤原朝臣-瀧子、橘朝臣-是影、田口朝臣-全子,
並從五位下.正七位上-大秦公宿禰-眉刀自、伊賀臣-真廣、
葛木日下連-鳳子,姓氏?,葛木忌寸,劍根命之後.蓋其族居日下邑,
因複姓也.並外從五位下.
 乙卯,以參議-正四位下-源朝臣-弘,為兼左大辨,
尾張守如故.參議-正四位下-安倍朝臣-安仁,為兼右大辨,彈正大弼、
春宮大夫、下野守如故.參議-從四位上-藤原朝臣-助,為兼治部卿,
加賀守如故.參議-從四位下-橘朝臣-岑繼,為兼右衛門督,
相模守如故.正四位下-源朝臣-明,為刑部卿.從五位下-藤原朝臣-良方,
從五位下-源朝臣-興,並為侍從.從四位上-正行王,為右京大夫.從五位上-
惟良宿禰-貞道,為兼伊勢介,圖書頭如故.從五位下-橘朝臣-本繼,
為武藏介.三品-基貞親王,為上總太守.從五位下-藤原朝臣-行人,
為介.從五位下-藤原朝臣-豐仲,為兼美濃介,右近衛少將如故.從五位下-
伴宿禰-御園,為信濃介.三品-仲野親王,
為上野太守.從五位下-高階真人-岑緒,為下野介.從五位下-小野朝臣-興道,
為陸奧守.從五位下-安倍朝臣-安立,為出羽守.從五位下-豐岡宿禰-真黑麿,
為若狹守.從五位下-良岑朝臣-長松,為丹波守.從五位下-良岑朝臣-宗貞,
為備前介.從五位下-春澄宿禰-善繩,為兼備中介,
文章博士如故.從五位下-大枝朝臣-直臣,為備後守.從五位下-大岡宿禰-豐繼,
為安藝介.從五位下-伴宿禰-龍男,為紀伊守.從五位下-山田宿禰-古嗣,
為阿波介.從五位下-紀朝臣-今守,為筑前守.從五位下-益善王,
為筑後守.從五位下-大和真人-吉直,為肥後守.從四位下-藤原朝臣-良相,
為兼左近衛中將,?藏頭、阿波守如故.從五位下-藤原朝臣-仲統,
為少將.從五位下-良岑朝臣-宗貞,為兼少將.從五位上-在原朝臣-行平,
為左兵衛佐.從五位下-橘朝臣-真直,為右兵衛佐.從四位下-藤原朝臣-岳守,
為左馬頭.
 丙辰,最勝會竟.殊引名僧十餘人於禁中,令論義.訖,施御被.
 戊午,天皇御紫宸殿,宴侍從已上.覽踏歌.訖,賜祿有差.
 己未,天皇御豐樂殿.觀射也.
 壬戌,天皇?宴於仁壽殿.公卿及詞客預宴者五六人,
同賦百花酒之題.宴竟,賜祿.
 戊辰,召外從五位下-尾張連-濱主於清涼殿前,
令奏舞.于時年百十四.帝矜其高年,授從五位下.宜合看去年正月乙卯條.
 是日,亦授正六位上-賀茂朝臣-乙本,從五位下.乙本,造琴之良工也.
 二月,壬申朔己卯,伊勢國言:
「鈴鹿郡枚田??主-川俣縣造-繼成?口-役-茂麻呂妻-川俣縣造-藤繼女?男.
其體自胸以上,兩頭分裂.二人相對,四手相具.面貌美麗,頭髮甚黑.自腹以下,
同共一體.生而一日死焉.」
 壬午,從五位下-橘朝臣-岑範,為中務少輔.從五位下-藤原朝臣-春岡,
為宮?少輔.從五位上-藤原朝臣-安永,為大膳大夫.從五位下-伴宿禰-益雄,
為皷吹正.從五位上-丹?真人-門成,為武藏守.從五位下-陸奧介-坂上大宿禰-
正宗,為兼鎮守將軍.正宗,按坂上系圖,作當宗.田村麻呂孫也孫.
從五位下-安倍朝臣-甥麻呂,為播磨介.
 甲午,太政官隨僧綱牒處分.從儀之僧,宜依其本數,
以八人為定.其餘皆從停止.
 戊戌,地震.
 己亥,從五位下-益善王男-興岑、忠道、忠棟、忠主等王九人,
正六位上-藤坂王男-豐助、將兄、諸山等王五人,正六位上-御藤王男-藤主、
藤宗、有宗等王三人,賜姓-清原真人.
 庚子,從五位下-紀朝臣-松永,為主計頭.從五位下-菅原朝臣-善主,
為主?頭.從五位下-陸奧守-小野朝臣-興道,
為兼下野權介.從五位下-菅原朝臣-是善,為兼越後介,
文章博士如故.從五位下-百濟宿禰-河成,為安藝介.
http://yjal.com/jp/furu/text/syokukouki/skk16.htm

 

『日本文徳天皇實録』朝日新聞本
《卷十天安二年(八五八)正月庚子【七】》○庚子。天皇不幸豐樂院。
唯御南殿而觀青馬。賜宴群臣。即如常儀。无位忠貞王授從四位下。
无位住世王從五位下。從四位下春澄朝臣善繩從四位上。正五位下源朝臣興。
南淵朝臣年名並授從四位下。從五位上藤原朝臣氏雄。
橘朝臣清蔭並正五位下。從五位下百濟王淳仁。橘朝臣貞雄。藤原朝臣有貞。
大和眞人吉直。藤原朝臣基經等並從五位上。正六位上源朝臣雙。
坂上大宿禰高道。良岑朝臣經世。紀朝臣恒身。文室眞人高岑。橘朝臣朝雄。
藤原朝臣廣守。藤原朝臣春江。藤原朝臣大野。都努朝臣清貞等並從五位下。
正六位上興道宿禰名繼。讃岐朝臣當世。上毛野朝臣永世等並外從五位下。
http://www.j-texts.com/chuko/montoku10.html

 

『日本文徳天皇實録』
《卷八天安元年(八五七)正月戊午【十九】》○戊午。於新成殿前。
觀賭射。是日。從四位下在原朝臣行平爲兵部大輔。因幡守如故。
從五位下大和眞人吉直爲木工頭。正五位下藤原朝臣良繩爲右近衞中將。
右中辨春宮坊亮内藏權頭備前權守如故。
http://www.j-texts.com/chuko/montoku8.html

 

国司補任 2 に大和吉直の記録は下記のように存在する。武蔵国では権介であり、数日で常睦国の権介を任されている。重任である可能性も捨てきれないが、その4ヶ月後には安芸国の守となる。これは出世であるから重任とは思えない。移動の日程を含んで、この100日間で武蔵国に影響力を与えたとは考えにくい。但し、なんらかの人脈でその後、深い繋がりが出来たのかも知れない(安芸国の守をとかれた後に、失脚もしくは放逐、出奔など行われたか?)。

承和13年(846) 正月13日任 肥後国 守(続後記)
承和14年(847) 2月11日任 兵部少輔(続後記)
天安2年(858) 2月5日任 武蔵国 権介(文実)
天安2年(858) 2月28日任 常睦国 権介(文実)
天安2年(858) 6月14日任 安芸国 守(文実)

 

貞観三年の東大寺の記録に請三師使の項に名前が記述されている。

貞観(859年から877年)は二十年程の期間があるので、失脚があったとしても不思議では無い。しかし、権介(国司ではあるものの)という役職で、その館が歴史に名を残すとは思えない。国司の概念は「守」であるようにも思える。また、蔵宗卿の「卿」はおそらく父親の役職を表しているものと思われるが、父親が誰であるか現時点では定かでは無い(候補のひとり、藤原安棟の父親は藤原葛野麻呂で最後の役職は民部卿)。

肥後守の後、武蔵国では権介と格落ちのようにも思えるが、武蔵国は大国であり、問題の多い場所であるから守にはなれなかったのだろうか?。その後、安芸国守となる。社交界にも名が残っているのに朝敵になるのだろうか?。だからこそ、大和眞人一族が歴史に残らないよう穏便に図ったのかも知れないが。

続日本後紀 承和14年2月12日 无品時子内親王薨。
遺兵部大輔従四位下豊江王。弾正大弼従四位上橘朝臣永名。
兵部少輔従五位下大和眞人吉直。左京亮従五位下飯高朝臣永雄等。
監護喪事親王者。天皇之皇女也<云々>。
http://kamosaiin.net/aoi02.html

 

供養東大寺盧舎那大仏記文

貞観三年歳次辛巳春三月十四日戊子行大会畢
一、行事官員俗行事 校
二品治部卿某甲親王 右大臣 某 位藤原 某 朝臣
大納言正三位源 某 朝臣 中納言正三位伴宿祢
左京大夫従四位下在原朝臣 右少弁従五位上藤原家宗
大和守正五位下弘宗王 大和権守在原安貞
散位布瑠宿祢清貞 散位秦宿祢永原
左大史三善宿祢清江 散位藤原朝臣春生
左兵庫小允伊勢朝臣諸継 左右弁官史生各一人 一、僧行事 校
伝燈修行賢大法師位真如 行事僧由遵僧遍昭
東大寺別当伝燈大法師位真昶 大威儀師伝燈大法師位正義
伝燈大法師位房忠 権威儀師伝燈大法師位恵戟
造東大寺所権専当伝燈位僧恵者 従儀師伝燈満位寵秀
従儀師伝燈住位峯澄
一、庁並雑屋
戒壇院東歩廊六間作在敷板。為庁造寺所作
庁前作七間板屋二宇。為雑工等作物所造寺所作
同院僧坊屋等。為出納作物所
御倉町倉一宇。収|納雑物。長年銭四千三百七十八貫文
一、公家施物
修理大仏殿大幡=。雑色絹黒紫綾三匹
赤紫綾一丈玖尺六分 黒赤綾一丈玖尺九寸
緋綾三丈六尺三寸七分 深緑綾漆尺七寸九分
浅緑綾二丈三尺一寸五分 浅黄綾四寸二分
縹綾二尺 浅綾七寸七分
白綾五丈一尺六寸九分 雲間 一匹
同=緋組九条
長各四尺八寸
辛組二条
長各七尺二寸
弘三寸四分
緑絹三疋 三丈 絹九匹 信乃調布一十四端
緑青大五斤十二両 唐夾纈一十一匹
三丈三尺一寸。以四丈為一匹
女舞衣二領 裳三=
裙帯一枚 領布一枚
一、雑造施入物
幡一百五十八流 大四十流
長各三丈六尺
懸大仏殿戸
小百四十四流
長各一丈四尺七寸
懸歩廊=
花縵代漆枚
長各七尺二寸
加緒組漆条
長各三丈六尺
懸大仏殿戸=
散花筥二百枚
七漆瓊八葉花
采色弘各一尺二寸
定者火炉二十口
金 弘各
七寸五分
平文高坏四十基
高各七寸六分
弘一尺
中門柱纒六条
長各二丈二尺
二寸 帯
東西脇門柱纒八条
長各二丈四尺五分
各四副加帯
歩廊柱纒七十条
長各一丈三尺六寸
各四副加帯
中門額一条
長九丈九尺
東西脇門額二条
長各闕字
歩廊額十八条
長各六丈二尺
幄四宇
長各五丈。表=紺裳緋。以
東絹三十疋。造一宇加緋網
張帯四具
長各二丈
美乃国長蓆一百四十張
五十三枚三綱所課衣端
八十八枚造寺所課衣端
千僧座=
一、諸寺加奉綿
合調綿一千二百七十二屯半
八百屯  延暦寺
三十一屯  拝志寺
五十一屯  梵釈寺
四十九屯半  粟田寺
五十八屯  佐比寺
四十二屯  鳥部寺
二百二十九屯半  檀林寺
一、諸人奉加
繍額一条  長十九丈五尺  弘五闕字
懸大仏殿南面=
舞女装束 唐衣九領 唐裳四= 袴一=
已上大僧都  真雅奉加
幡四十流  長各一丈二尺三寸  懸大仏殿東近廊=
絹八十疋 調布四十七段  信乃七反  弘四十段
綿九十三屯   紙六百五十帳  長年銭四十一貫
暑三十六文   布三十反 交易布十三反
糸二=   六口  胡粉十六斤三両二分
丹小七十斤十四両二分   空青大五十斤 緑青小六斤四両二分
白緑小三斤
已上右大臣藤原朝臣奉
舞人衣四襲 菩薩装束二具 調布三百二十反
絹八疋 長年銭二貫文 唐錦九尺三寸
紗一疋 青摺衣二領 鞋一十足
已上東大寺衆僧。奉加舞人装束=
長年銭二十一貫文 絹二疋 綿一十九屯
米五石八斗四升 紙六万帳 交易布一反
桶三十囗口 闕字歟 板五十六柄 析 十四合
菜桶九口  巳上諸人奉加
一、請法用僧等合一千三員
開眼師。東大寺律師伝燈大法師位恵運 導師。薬師寺律師伝燈大法師位恵達
咒願師。元興寺小僧都伝燈大法師位明詮 唄師十人。散花師十人。
梵音僧二百人。錫杖僧百八十人。衲僧三百八十人。甲僧二百人。
定者僧二十人。
一、請三師使
請導師使 請開眼師使 請咒願師使 左京大夫従四位下在原朝臣行平
治部太輔従五位上源朝臣包 散位従五位上大和真人吉直
玄番頭従五位下佐伯宿祢真持 請書文
云々

藤原安棟の父(藤原葛野麻呂)

藤原葛野麻呂(ふじわら の かどのまろ)
天平勝宝7年(755年) – 弘仁9年11月10日(818年12月11日)
奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。藤原北家、大納言・藤原小黒麻呂の長男。最終官位は正三位・中納言。遣唐大使。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%91%9B%E9%87%8E%E9%BA%BB%E5%91%82

大同3年(808年) 2月:中納言、式部卿如元
大同4年(809年) 3月30日:正三位。4月14日:兼東宮傅(春宮:高岳親王)
大同5年(810年) 9月13日:去東宮傅
弘仁3年(812年) 12月5日:兼民部

『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
『尊卑分脈 第一篇』吉川弘文館、1987年

男子:藤原永宗
六男:藤原常嗣(796-840)
七男:藤原氏宗(810-872)
男子:藤原安棟
男子:藤原常永 ?  –  貞観9年(867)遣唐大使。最終官位は正五位下・但馬守。
男子:藤原豊宗
男子:藤原高貞
男子:藤原弟貞
男子:藤原後継
男子:藤原是緒

 

藤原安棟

藤原安棟
武蔵国司に 867年〈貞観9年〉2月11日任 – 877?、従五位下、『日本三代実録』。藤原葛野麻呂の子。母は山輪王の女(山輪王については全く情報なし)。

 

 

武蔵国司蔵宗卿

 武蔵国司蔵宗卿についての情報を集約したいと思う。しかし、深大寺関連の情報が全てである。「蔵宗卿」というのは通称であって、尊卑分脈、国司補任などに記載される正式な人物の名称では無い。「清和天皇貞観年中」とあるが「恵亮和尚」は貞観2年(860年)に没しているので、この2年間で終結した事件であると考えるのが自然である。しかし清和天皇は元慶5年(881年)に崩御されているので貞観年中の事件であった可能性も捨てきれない。貞観年中であれば「藤原元利万侶」の事件が日本三代実録には記載されており、現役の国司であれば同様に記載されたものと思われる(但し、意図的に記載されなかった、もしくは後に消去された可能性もある)。いずれにしても、もともと貞観前後の情報は少なく、応仁の乱(1477年から約10年)で焼失してしまった資料に含まれていた可能性が高い為、想像の域を超えられないのかも知れない。