武蔵国司蔵宗卿を「武蔵守」と決めつけて良いのだろうか?。
『江戸名所図会』では図会の説明書きとして、深大寺の難波田弾正城址を「この地は往古清和帝の御宇、蔵宗卿武蔵の国司たりしとき、ここに住せられたりし旧館の跡にして・・」と記述している。
武蔵国司館跡が府中に発見されて、今後、観光資源としてアピールするという記事を見て、武蔵国司館跡と深大寺の距離を調べたのだが、非常に違和感を感じた。深大寺を起点とした場合、武蔵国司館跡と武蔵国分尼寺跡どちらからも徒歩で1時間以上と離れた距離であり、武蔵国司蔵宗卿の「国司」の意味するところが最上位である「守(かみ)」だとしたら、そのように遠い場所に邸を構えるのか?という疑問が生じる。「守」であれば、任官中は武蔵国司館跡に居住していた可能性が高く、それより下位であっても周辺に居住していたはずだ。
(この時代、地方官に転じたことで京都の拠点を捨てる官僚が多くいたとのことで、隠居後の邸だったという考え方も残されてはいるが、蔵宗卿が守では無かったと考えることも必要であると感じる。)
※ 国司とは、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等のこと。
※江戸名所図会の成立は江戸時代後期の天保年間。貞観年間から1千年後。
浮岳山 昌楽院 深大寺、〒182-0017 東京都調布市深大寺元町5丁目15-1
府中御殿 井戸跡 発見場所、〒183-0027 東京都府中市本町1丁目14
浮岳山 昌楽院 深大寺、〒182-0017 東京都調布市深大寺元町5丁目15-1
武蔵国分尼寺跡 〒185-0023 東京都国分寺市西元町2丁目9-6