藤原安棟の次の武蔵守「紀安雄」

貞観9年(867年)2月に武蔵守となった藤原安棟が、いつまで武蔵守であったかの記録は残っていない。次の武蔵守の記録としては、10年後の貞観19年(877年)の「紀安雄」だが、この人の評判が大変良かったらしい。つまり、前任者の評判が悪かったと捉えることができる。後に朝敵となり武蔵国司蔵宗卿と呼ばれたとしても不思議では無い。前任者が藤原安棟だとしたら。もしくは前任者のひとりとして評判が悪かったのが藤原安棟の可能性はある。

この時期の武蔵国は混乱していた。高級官僚にとって、出世のための収入源として、「守」の役職につくことが重要であった。しかし、その地位に就くことは個人の一存ではかなわなかったはずである。藤原安棟の兄、大納言・藤原氏宗は弟が武蔵守になった3年後、右大臣に昇進している。

じょうがん 貞観9年(西暦867年)2月11日 藤原安棟 守
げんけい 元慶(西暦877年)紀安雄 守

 

【藤原安棟】
貞観9年(867年)にも正月にいったん筑前守に任ぜられるが、2月には武蔵守に遷るなど、
地方官を歴任している。従五位下。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%89%E6%A3%9F

 

【紀安雄】
大納言・藤原氏宗らと共に取り組んできた格式の編纂を完了し、同年4月に貞観格を、貞観13年(871年)には貞観式を撰上している。
貞観16年(874年)従五位上に叙せられる。
のち、主計頭を経て、貞観19年(877年)武蔵守に任ぜられ地方官に転じる。
地方官としての統治にあたって、物事を簡素にして恩恵を施すことを重視したことから、官人も民衆も非常に満足したという[『日本三代実録』仁和2年5月28日条]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%AE%89%E9%9B%84

從五位下の種継の子。仁明天皇が経術を崇信し、屡々儒士を招いて御前で難しい議論をさせていた。
当時、御船宿祢氏主が大学博士、種継が助教であった。二人は、御前で経義について議論し、論駁が繰り返されて、互いに相手を説得できなかった。
同じ時期に、左近衛阿刀根継と右近衛伴氏長の二人がいて、ともに相撲が上手で天下無双とされていた。
仁明天皇は戯れに氏主を氏長に、種継を根継に例えたという。種継は元の姓が苅田と言い、安雄になると紀朝臣の姓を賜った。安雄は、ゆったりとして従順な性格を持ち、学問の研究に秀でた。
天安初年は大学直講を務め、後年從五位下を授けられ、助教に任ぜられた。格式の編纂に参加していた。のち武蔵守となり、施政が寛大且つ仁恵で、官僚と民が安定して暮らせるようになった。儒家の経典に精通し、文才に富んでいた。仁和二年、從五位上、周防守にまで栄転。
六十五歳で亡くなった。
『前賢故実』
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/artwiki/index.php/%E7%B4%80%E5%AE%89%E9%9B%84

※大納言・藤原氏宗は藤原安棟の兄(貞観9年・867年正三位・大納言 貞観12年・870年右大臣)
貞観元年(859年)藤原淑子を後室に迎える
兄弟 永宗、常嗣、氏宗、安棟、常永、豊宗、高貞、弟貞、後継、是緒

 

藤原安棟の甥(藤原是法)

藤原 是法(ふじわら の これのり)
生没年不詳
平安時代前期の貴族。母は伴真臣の娘。名は維範・是比とも記される。
最終官位は従四位上・右京大夫。

時期不詳:正六位上。式部大丞。蔵人
貞観6年(864年) 正月7日:従五位下。3月8日:内匠頭
貞観8年(866年) 2月13日:兼安芸権介。12月29日:次侍従
貞観9年(867年) 2月29日:兼阿波権介。日付不詳:辞阿波権介(父の服喪)
貞観10年(868年) 正月16日:兼阿波権介
時期不詳:兼備後権介
貞観12年(870年) 正月25日:兼備後介
貞観16年(874年)以前:左衛門権佐
時期不詳:従五位上。兼美濃権介。
元慶元年(877年) 11月21日:正五位下
時期不詳:左近衛権少将
元慶5年(881年) 正月15日:兼但馬守。日付不詳:左近衛少将。兼近江権介
元慶6年(882年) 正月7日:従四位下
時期不詳:従四位上。右京大夫
注記のないものは『日本三代実録』による。

男子:藤原元善
男子:藤原元佐