武蔵国司館跡と深大寺の距離に違和感

武蔵国司蔵宗卿を「武蔵守」と決めつけて良いのだろうか?。

『江戸名所図会』では図会の説明書きとして、深大寺の難波田弾正城址を「この地は往古清和帝の御宇、蔵宗卿武蔵の国司たりしとき、ここに住せられたりし旧館の跡にして・・」と記述している。

武蔵国司館跡が府中に発見されて、今後、観光資源としてアピールするという記事を見て、武蔵国司館跡と深大寺の距離を調べたのだが、非常に違和感を感じた。深大寺を起点とした場合、武蔵国司館跡と武蔵国分尼寺跡どちらからも徒歩で1時間以上と離れた距離であり、武蔵国司蔵宗卿の「国司」の意味するところが最上位である「守(かみ)」だとしたら、そのように遠い場所に邸を構えるのか?という疑問が生じる。「守」であれば、任官中は武蔵国司館跡に居住していた可能性が高く、それより下位であっても周辺に居住していたはずだ。
(この時代、地方官に転じたことで京都の拠点を捨てる官僚が多くいたとのことで、隠居後の邸だったという考え方も残されてはいるが、蔵宗卿が守では無かったと考えることも必要であると感じる。)

※ 国司とは、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等のこと。
※江戸名所図会の成立は江戸時代後期の天保年間。貞観年間から1千年後。

 


浮岳山 昌楽院 深大寺、〒182-0017 東京都調布市深大寺元町5丁目15-1
府中御殿 井戸跡 発見場所、〒183-0027 東京都府中市本町1丁目14


浮岳山 昌楽院 深大寺、〒182-0017 東京都調布市深大寺元町5丁目15-1
武蔵国分尼寺跡 〒185-0023 東京都国分寺市西元町2丁目9-6

藤原安棟の兄(藤原氏宗)

藤原 氏宗(ふじわら の うじむね)
弘仁元年(810年)- 貞観14年2月11日(872年3月23日)
平安時代前期の公卿、宮廷政治家。藤原北家、中納言・藤原葛野麻呂の七男。
最終官位は正三位・右大臣、贈正二位。

母の父は和気清麻呂(わけのきよまろ)
最終官位は従三位(行民部卿兼造宮大夫美作備前国造)、贈正三位。

天安2年(858年)清和天皇の即位後に正四位下へ叙せられる。
貞観元年(859年)従三位、また同年藤原基経の異母妹で後宮に
出仕していた藤原淑子と結婚する。清和朝では、貞観3年(861年)
先輩の参議で後に左大臣にまで昇る嵯峨源氏の源融を越えて
中納言となると、同じく嵯峨源氏の大納言源定・源弘の薨去もあり、
貞観6年(864年)権大納言、貞観9年(867年)正三位・大納言
と目覚ましい昇進を遂げ、貞観12年(870年)右大臣に至った。
なお、この急速な昇進の背景には後宮の実力者であった妻・淑子
の影響もあったとされる。清和天皇の命により、
貞観11年(869年)に『貞観格』を、貞観13年(871年)には
『貞観式』を選上。また貞観永宝の鋳造にも関わり、貞観の治と
呼ばれる同天皇の治世に大いに貢献した。(wikipedia)

右大臣に在任中の貞観14年(872年)2月11日薨御。
死後正二位を贈られており、もしも弟である藤原安棟が事件を起こしていたと
したら死後の贈正二位は無いように思える。
(詳しくは無いが、この頃、連座制が廃止されていたとも思われ、兄弟の事件に無関係であったとしても不思議では無い。)

また、弟である藤原安棟の出世(貞観9年から武蔵守)に影響を与えなかったとは考えにくい。兄が貞観14年に亡くなったことで藤原安棟だけでなく一族は混乱したものと思われる。

藤原淑子から見れば本来、出世していた夫が亡くなったことで没落の恐怖を感じているはずだが、腹違いの兄弟である基経が氏宗が亡くなって空席であった右大臣に昇格。立場上、氏宗は応天門の変に深く関わったであろうから、亡くなるタイミングに違和感を感じる。氏宗が前妻との間に生んだ4人の男子はさしたる出世はしていないようだ。いずれにしても、淑子から見れば亡くなった夫の兄弟である安棟の心配などしている場合では無いと思われ、むしろ、安棟が兄の七光りで出世していたとしたら、追い落とす勢力に回ったとしても不思議ではない。

「もともと淑子と氏宗の間には子がなく(淑子は後妻)、また淑子は氏宗と先妻との間の子には冷淡であったというから、遍真のような氏宗の後裔は円成寺内で冷遇されていた。」円成寺跡(大豊神社)http://www.kagemarukun.fromc.jp/page027.html

藤原安棟の甥(藤原是法)

藤原 是法(ふじわら の これのり)
生没年不詳
平安時代前期の貴族。母は伴真臣の娘。名は維範・是比とも記される。
最終官位は従四位上・右京大夫。

時期不詳:正六位上。式部大丞。蔵人
貞観6年(864年) 正月7日:従五位下。3月8日:内匠頭
貞観8年(866年) 2月13日:兼安芸権介。12月29日:次侍従
貞観9年(867年) 2月29日:兼阿波権介。日付不詳:辞阿波権介(父の服喪)
貞観10年(868年) 正月16日:兼阿波権介
時期不詳:兼備後権介
貞観12年(870年) 正月25日:兼備後介
貞観16年(874年)以前:左衛門権佐
時期不詳:従五位上。兼美濃権介。
元慶元年(877年) 11月21日:正五位下
時期不詳:左近衛権少将
元慶5年(881年) 正月15日:兼但馬守。日付不詳:左近衛少将。兼近江権介
元慶6年(882年) 正月7日:従四位下
時期不詳:従四位上。右京大夫
注記のないものは『日本三代実録』による。

男子:藤原元善
男子:藤原元佐

藤原安棟の兄弟(藤原常永)

藤原 常永(ふじわら の つねなが/とこなが)
生年不詳 – 貞観9年(867年)
平安時代初期の貴族。藤原北家、中納言・藤原葛野麻呂の子(?男)。
遣唐大使(実際に渡唐した最後の遣唐使)に任命されている。
最終官位は正五位下・但馬守。妻は伴真臣の娘 。
妻の姉が嫁いだのは藤原常嗣(藤原葛野麻呂の六男。最終官位は従三位・参議。)。
天長2年(825年) 正月7日:従五位下
承和10年(843年) 2月10日:勘解由次官
承和13年(846年) 5月23日:美濃守
嘉祥2年(849年) 正月7日:従五位上
斉衡2年(855年) 2月15日:治部大輔
天安元年(857年) 9月10日:刑部大輔
天安2年(858年) 3月13日:尾張権守
貞観5年(863年) 2月10日:但馬守
貞観6年(864年) 正月7日:正五位下
『六国史』に基づく。

 

男子:藤原是法
男子:藤原維邦(? –  879)
男子:藤原安柯

平安時代の元号

【平安時代】
大同806-810 弘仁810-824 天長824-834 承和834-848 嘉祥848-851 仁寿851-854 斉衡854-857 天安857-859 貞観859-877 元慶877-885 仁和885-889 寛平889-898 昌泰898-901 延喜901-923 延長923-931 承平931-938 天慶938-947 天暦947-957 天徳957-961 応和961-964 康保964-968 安和968-970 天禄970-974 天延974-976 貞元976-978 天元978-983 永観983-985 寛和985-987 永延987-989 永祚989-990 正暦990-995 長徳995-999 長保999-1004 寛弘1004-1013 長和1013-1017 寛仁1017-1021 治安1021-1024 万寿1024-1028 長元1028-1037 長暦1037-1040 長久1040-1044 寛徳1044-1046 永承1046-1053 天喜1053-1058 康平1058-1065 治暦1065-1069 延久1069-1074 承保1074-1077 承暦1077-1081 永保1081-1084 応徳1084-1087 寛治1087-1095 嘉保1095-1097 永長1097-1097 承徳1097-1099 康和1099-1104 長治1104-1106 嘉承1106-1108 天仁1108-1110 天永1110-1113 永久1113-1118 元永1118-1120 保安1120-1124 天治1124-1126 大治1126-1131 天承1131-1132 長承1132-1135 保延1135-1141 永治1141-1142 康治1142-1144 天養1144-1145 久安1145-1151 仁平1151-1154 久寿1154-1156 保元1156-1159 平治1159-1160 永暦1160-1161 応保1161-1163 長寛1163-1165 永万1165-1166 仁安1166-1169 嘉応1169-1171 承安1171-1175 安元1175-1177 治承1177-1181 養和1181-1182 寿永1182-1184 元暦1184-1185

 

 

貞観年間の国司(武蔵国)

国司補任を参照して、貞観に赴任していたと見られる武蔵国の国司の中から、藤原氏族のみ抽出すると4名が存在する。
(国司補任に全てが網羅されているとは考えにくいものの、現時点で材料となるものは限られている。)

国司補任より

貞観四年 守 従五位下 藤原忠雄 正月十三日任(三実) 
貞観九年 守 従五位下 藤原安棟 二月十一日任(三実)元筑前守
貞観十二年 権介 従五位下 藤原柄範 正月廿五日任(三実)
貞観十四年 介  藤原房守 九月四日見(三実)
(藤原氏族のみ抽出)

 

上から2番目の藤原安棟は同じ年の正月に赴任した橘春成に代わり急遽任命されている。なんらかの事件との関連があるかも知れない。

貞観九年 守 従五位上橘春成 正月十二日任{三実}
               二月十一日遭大膳大夫(三実)

 

 

 

https://blogs.yahoo.co.jp › notnokami14991006

大苗代氏の方は「武蔵国司蔵宗の息男の曾孫、頼實」という不明な人物を祖としており・・・

 

 

 

 

栃木県宇都宮市に伝わる「関白流獅子舞」

関白流獅子舞の「関白」とは、藤原利仁公のことであろう。この獅子舞は主に室町時代に成立して、天明の大飢饉の頃に宇都宮や日光に広まったものと思われる。

下野国(しもつけのくに)は宇都宮を中心とした現在の栃木県のことであり、武蔵国(東京都府中市・国分寺市・調布市などと埼玉県)に隣接する令制国である。武蔵国を起源とする賊徒が逃げ延びたか、もしくは勢力を拡大して下野国に拠点を持っていたのかも知れない。

武蔵国は東山道により下野国に繋がっていたとの考察があり、「東山道武蔵路(むさしみち)」と呼ぶようだ。

参考:武蔵国は東山道に属していた時期があった            http://best-times.jp/articles/-/6744

 

鞍馬蓋寺縁起には「下野国高座山のほとりに、群盗 蟻のごとくにあつまりて、千人党を結べり」とあり、高座山という山を物理的に確定できれば、盗賊退治の伝承を、より史実性が高いものとして扱えることになる。これについては栃木県宇都宮市に現存する「関白山神社」を「高座山神社」と呼んでいた時代があるようなので、この神社の存在する場所もしくはその周辺を高座山と呼んでいたのかも知れない。また、すぐ近くの「白山神社」の由緒には下記のように記述がある。

社傳に曰く人皇五十三代淳和天皇の御宇天長二年825三月の
勸請なり 其后延喜十二年912鎭守府将軍藤原利仁敕命を蒙り
當國に下向し高座山の賊蔵宗蔵安を追討せる時當社に戦勝を祈り
各靈境と共に崇敬あり

参考:栃木県の神社kyonsight                  http://kyonsight.com/jt/miyakita/kanpaku.html

 

貞観(じょうがん)は、日本の元号の一つ。天安の後、元慶の前。
859年から877年までの期間を指す。この時代の天皇は清和天皇
(在位期間858年12月15日 - 876年12月18日)
延喜(えんぎ)は、日本の元号の一つ。昌泰の後、延長の前。
901年から923年までの期間を指す。この時代の天皇は醍醐天皇。
(在位期間897年8月14日 - 930年10月16日)

 

 

 

栃木県内には、六十近くの獅子舞団体があるが、本県の獅子舞の
特徴の一つに、流派を名乗る獅子舞が多いことがあげられる。
中でも宇都宮市関白の「関白神獅子舞」を祖とする関自流獅子舞と、
日光市文挟に所在した獅子舞を柤とする文挟流獅子舞は、
本県獅子舞の二大流派として知られる。関白神獅子舞は、
地元に残る文書記録から、元禄十(一六九七)年ころには存在して
いたことが知れる。当初は個人的な意味合いが強く、後に道具の
管理等の面から関白村の獅子舞となったものである。
ともあれ関白獅子舞は、本県の獅子舞の中では起源が古く、
各方面から注目された。先の文書記録によると、元禄十年ころに
宇都宮藩主の前で獅子舞を披露している。天保九(一八三八)年に
行われた宇都宮大明神(現、二荒山神社)社殿再建時の地鎮祭では、
地固めの獅子舞を行っている。一方、各地より獅子舞伝授の
要望もあった。塩谷町船生寺小路には、文化七二八一〇)年に
関白村よりの獅子舞伝授書が、宇都宮市中里西組、同横倉には
天保九年の伝授書等があり伝授の様子が窺える。こうした
関白獅子舞の活動に一大改革の時期が訪れる。時は明治初期、
天皇親政の新時代において、どのように対処したら村の発展に
繋がるか、村民は腐心を巡らしたのである。村民が着目したのは、
この地に伝わる平安時代の武将、藤原利仁の賊徒退治の伝説
であった。利仁伝説は京都鞍馬寺の「鞍馬蓋寺縁起」に記されて
おり、概略は「その昔、下野国高座山の麓に蔵宗蔵安兄弟が首領
となる賊徒達が民衆を苦しめていた。利仁は天皇の命を受けて
派遣された。高座山の麓に兵を率いて到着したのが六月十五日、
ところが利仁は降雪を予感し橇を作り戦いに備え、深雪に難儀
する賊徒達を見事打ち破る」という話である。関白村では、
この話の後にさらに「利仁が亡くなり、葬儀の際に天気が急変した。
それは悪魔の仕業であるとして獅子をかたどり舞った。
すると雲が晴れて利仁の亡骸を無事埋葬することが出来たので、
以来、獅子舞を行っている」といった話を付け加え、
関白獅子舞の由来話を作り上げたのである。その上に、
高座山の賊徒退治の話を獅子舞化して「鬼退治の舞」を新たに
創り、明治十二二八七九)年には、利仁を祭神とする
高座山神社(現、関白山神社)を祀り、そしてこれら一連の
ことを「天下一神獅子由来之巻」として書き記し、
巻物するとともに、新たに獅子舞伝授書を作成したのである。
こうした活動は、明治新政府に関白村民が抱いてきた
尊王の心を認めてもらいたいとの思いと、これを機に
関白獅子舞の名を高め、流派を確立することにあったと思われる。
その狙いは見事に当たった。高座山神社は明治新政府より
神社として認められ、また、従来より関係の深かった所はもとより、
多くの獅子舞伝承地から先の巻物や伝授書の依頼が舞い込み、
県内各地に関白流獅子舞が花開いたのである。 時代の変革に
どのように対処したらよいか、関白の人々の明治初期の活動は、
その手本といえよう。(in-for.kir.jp 宇都宮大学HP)

 

 

 

関白流下小林獅子舞

小林の獅子舞は、風流系一人立三頭獅子の関白流獅子舞です。
舞役は雄獅子2人、雌獅子1人、庭役は額持ち、弓持ち、棒使い2人、
花籠4人、鬼、道化役、笛方などから成り立っています。毎年、
8月16日に小林瀧尾神社において、奉納獅子舞が行われています。

 

江戸名所図会「蔵宗卿の叛逆」

 

 貞観年間、武蔵国司蔵宗卿叛逆す。

(『江戸名所図会』より)

(深大寺村)深大寺

村の中程より南に寄てあり。今寺領50石の御朱印を賜ふ。天台宗、
東叡山の末、浮岳山昌楽院と号す。天平5年の建立にて、開山は
満功上人なり。古は法相宗なりしが、貞観年中恵亮和尚住職の時
改宗せしと云。慶安3年の2月第五十七世弁盛上人の記せし縁起あり。
其の文の略に、聖武天皇の御宇当所柏野の里と云は、今の佐須村の
ことなりしとぞ。其里に右近某と云長者あり。狩猟をこのみて
鳥獣そこはくの生命を害せり。曾て妻女を求めんとして、普く
遠近を尋けれども、心に協ひし者を得ず、ある時いつこともなく
一人の女来りて、やとの妻とならんことを請ふ。その名を問へば
虎と云と答ふ。天成霊質ありて百美自ら備れり。己に夫婦となりて
より、常々夫を諌て殺生の業因の甚きことを諌む。ここに於て
少しくそのことを信じて殺業を止たり。その後一女を生む。巳にして
年十二三に及ぶ比、たまたま童子福満と云者ありて、かの童女を慕ひ、
しはしは文書をよせしかば、終に密通の識を得たり。この福満もと
誰か家の子と云ことも知らざりしかば、父母かなしみにたへずして、
禁ずれどもやまず、ここに於て湖中の鳥をたづね、宮室を営みて
童女をかしこへ移り住しむ、童子これを知りて尋至らんとせしかど、
船筏なければその所に渡るべからず。よりて三蔵玄奘師の流沙河を
渡られし古を思ひ、水神深砂(或は真蛇)大王を祈りて誓へるは、
もしわれ湖水を越ることを得ば神明を崇め祭りて、長く湖水の主とし、
且当郷の鎮守と仰ぎ参らせんと誓ひしに、丹心空しからず、忽ち霊亀
浮み出ければ、それに乗して難なく島に至りけり。双親かの善神の
冥助あることを感じて、ついに婚姻のことゆるしけり。程へて
ひとりの男子を儲けたりしに、いと聡明にして天機発越せり。
長ずるに及んで大夫語て云、我昔大願ありしが未果さず、汝早く
釋門に入て父母の恩を報ぜよと。ここに於て薙髪して南京に至り
大乗法相を学び、広く白法の深義を窮めて本国にかへり、ついに
当山をひらく。満功上人これなり。孝謙天皇天平勝寶2月17日の暁、
神水中の岩上に降ります、是寅月寅日時なり、然りしよりこのかた
寅の日を以て当寺の吉日とす。その岩は今逆川にありしとぞ。然れ
共其尊容いかんなること知らざりしが、たまたま新羅より船来の
画像ありければ、これを法とし彫せんとせしが、又霊木を得ざるを
憂ひけり。然るに夜中に声ありて告を蒙り、近きほとりの多摩川に
つひて浮木をもとむ。これを見るに桑木三條なり、採かへりて
一刀三禮し同体三尊を刻しに、同7月3日成就せり。これを武野羽の
三州に分ちて崇めまつれり。その一は則当寺境内に祀るもの是なり。
廃帝の御宇、願ひによりて勅額を浮岳山深大寺と賜へり。依て
大般若経を転読せしめらる。これを永式として、鎮護国家の道場
となる。平城天皇御宇、更に勅して四海安康を祈誓せしめらる。
清和天皇貞観年中、当国の国司蔵宗叛逆の聞えありし時、
恵亮和尚(812-860)に勅して密に幽伏の法を修せしめられ、
和尚勅をうけて当国に遊び、国分寺に至りて勝地を求め
五大明王を本尊として調伏護摩の法を修しければ、
忽凶徒降伏せり。
帝大にめでさせ玉ひて、当山を賜ひ、且寺領として七邑を寄附せらる。
世に深大寺七村といへり。かくて和尚は当山の寺務を以の故に相宗を
改て永く台教の宗門に帰せり。是より以来燈々相傳へて繁盛、他寺に
異なり、しかのみならず源家の祈願所として東国第一の密場たり、
別当大行寺十二坊、無常道場別所等いよいよさかんなり。又傳ふ、
この後当寺えあづかりし皃童のことによりて、その父鎌倉将軍の家人
たりしが、寺門へ乱入して放火せしにより、堂塔以下悉く灰燼となり、
さばかりの仏閣一時に廃亡せり。遥の後世田ヶ谷吉良家、当時の
衰廃を歎き、やがて再興ありて、当郷を以て供料に充て、且並平行安が
造し太刀を内宮に納められしにぞ。再び寺門の面目をぞ施しける。
然るに天正18年小田原北条家滅亡の時、世田ヶ谷も共に没落せしかば、
ふたたび当寺も危ふかりしに、東照宮守護不入の御判物を賜ふと云々。
その後正保3年の春回祿にあひて、経琉・霊佛・霊宝及諸梵記・
縁起等ことごとく烏有となれりと云々。今の堂宇は皆この後の再建なり。

(新編武蔵風土記稿より)

 

『江戸名所図会』深大寺城跡は武蔵国司蔵宗卿の館跡

【難波田弾正城址】深大寺大門松列樹の東の方の岡をいふ。
土人は城山と呼べり。いまは麦畑となるといへども、ここかしこに
湟池の形残れり。この地は往古清和帝の御宇、蔵宗卿武蔵の国司
たりしとき、ここに住せられたりし旧館の跡にして、天文の頃、
上杉朝定の家臣難波田弾正忠広宗、松山の城の出城としてここに
城郭を構へたりしなり。

 

 

 

 

 

鞍馬蓋寺縁起の「蔵宗・蔵安」

京都の鞍馬寺(くらまでら)に伝わる鞍馬寺史『鞍馬蓋寺縁起』(あんばがいじえんぎ)には私案抄よりも詳しい内容で利仁伝説が記述されている。

盗賊については「蔵宗・蔵」と記述されており、「蔵宗卿」との関連を思わせる。しかし「群盗・賊徒・異類・凶徒」と表現され公卿の末裔だとしたら不名誉な扱いである。鞍馬蓋寺縁起には藤原利仁についての他のエピソードが含まれており、説話性が高い。同じ事件を私案抄(武蔵国の深大寺)では「当国ノ国司」と記述しており、鞍馬蓋寺縁起よりも史実に近いものと思われる。

 

第四段 又鎮守府将軍藤原利仁と云ふ人あり、武勇淵偉にして将帥たるに
足れり、突厥の類、歸服せずといふ事なし、爰に下野国高座山のほとりに、
群盗 蟻のごとくにあつまりて、千人党を結べり、藏宗藏安其前鋒たり、
關東よりの朝用雑物彼党類の爲に常に被抄劫 国の蠱害唯以て在之。

第五段 これによりて亦公家有テ評議忽其人をゑらぶに天下の推ところ
編ニ利仁にあり、異類誅罸すべきよし宣旨を下され、利仁精撰を悅と
いへども、尚かちがたき事を恐れて、仍天王の加被を仰で當山に参詣し、
立願祈精ス即チ示現あり、鞭をあげて下野国に進發し、高座山のふもとに
下着す、于時六月十五日 なり、心におもふところありてたちまちに
橇(かんじき)をつくらしむ、やうやく深更に及で、近く腹心の武臣を
めして、天雪降やと問ふ、郎従將略を知ずして、天はれたりと答ぬ。
将軍大ニ怒て忽に劔を賜てころさしむ。

第六段 又少し時をへて他の勇士をめして前のごとく問ふ、前事の
いましめをおもひていつはりて雪ふるよしを答ふ、利仁甘心服鷹ス。
半夜に及で、陰雲四含、白雪高ク積ル萬壑千岩高下を隔ず、徐々至曙ニ天晴
雪止、利仁千里の籌をめぐらして、四方の兵を率して、鹿敷(かつ)を
つけて、鵝毛をおそれず。賊徒飢凍して寸歩することあたはず、利仁
乗勝逐逃ヲ以テ常千、遂に凶徒を切て馘を献ず、これによつて名威天下に
振ひ武略海外にかまびすし、即チ宿願をとげむが爲に、毘沙門天王の像を
造顯す、當寺において開眼供養ス帯するところの劔をとひて大天荘巌の
ためにす、忽夢の告ありて我これを納受せず、彼千人の首をきる劔を以て
我劔たるべしと云々、夢覚て後即施入し奉る、爰に従兵の中、此劔を
好ム者あり遂にやむことなくして、夜中ひそかに寶殿をひらき玉體の間に
ちかづけば腰底の雄劔よもすがら昇降す、仰レ之彌高跛キ踵(シュ)
及がたし、直下在地携ル手ヲ不至、洞天己明ニ、倫兒逃去、仍尊像を
劔惜天王とも號したてまつる、脱其 神剣ヲ蘊納す、寶殿天下在乏窺翫
せずといふこどなし。

 

【鞍馬蓋寺縁起】

大日本佛教全書・119(仏書刊行会)の99ページ目

        鞍馬蓋寺縁起の全文

(上から3枚目の画像、左ページから利仁伝説)