「貞観年中、当国ノ国司、蔵宗蔵吉、彼兄弟ノ者共、朝敵ト為シ、之時、恵亮和尚」とある。同じ事件を江戸名所図会では「蔵宗卿」と表現しており、より古い時代の、この私案抄では「蔵宗・蔵吉」という兄弟として記述されていることが興味深い。
※「吉」は正確にはつちよし(士ではなく土)で筆書きされている
これは、同じく2人の兄弟が登場する伝承「利仁伝説(鞍馬蓋寺縁起)」や「関白神獅子舞」にそれぞれ登場する兄弟の盗賊「蔵宗・蔵安」と符合する。
利仁将軍(藤原利仁)は生没年詳であるが、延喜15年(915年)に
下野国高蔵山で貢調を略奪した群盗数千を鎮圧し武略を天下に
知らしめたということが『鞍馬蓋寺縁起』に記されている。
この年には鎮守府将軍となり、その最終位階は従四位下であった
とされる。
(wikipedia)
恵亮(えりょう)
802/812-860 平安時代前期の僧。
延暦(えんりゃく)21/弘仁(こうにん)3年生まれ。天台宗。天長6年
義真から受戒し,円澄(えんちょう),円仁にまなぶ。
文徳(もんとく)天皇の皇子惟喬(これたか)と惟仁(これひと)
(清和天皇)両親王が皇太子の位をあらそったとき,惟仁親王のために
祈願したという。のち内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ),
貞観(じょうがん)元年比叡山(ひえいざん)西塔宝幢院の
検校(けんぎょう)となった。貞観2年5月26日死去。
49/59歳。信濃(しなの)(長野県)出身。
(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
武蔵野国司が反乱を起こし、後に下野国を拠点として朝廷に対抗していたものか?。いずれにしても、恵亮和尚が亡くなった貞観2年(860年)から延喜15年(915年)までは45年の開きがあり、その国司の2代目、3代目の一族が国司の乱の数十年後に鎮圧されたものと考えることが出来る。貞観の最後の年は19年(877年)であるので、恵亮和尚の没年が正確であるかという考察や、そもそも恵亮和尚が本当に関わったのかどうかも検証する必要がある。
清和天皇は文徳天皇の崩御に伴い、わずか9歳で即位され、その年から貞観が始まったが、実質的に実験を握っていたのは藤原良房であるから、武蔵野国の混乱について比叡山に祈祷を要請したのも藤原良房の意向であったと思われる。この7年後の貞観8年(866年) に応天門炎上事件(応天門の変)が発生する。
国司として派遣された藤原氏の中から、在地勢力と融合するものが出てきて、それが露見した際に、藤原良房と折り合いが付かなくなり逃亡して組織化したものか。その組織が大きくなり、ついに藤原利仁に討伐されたということであったなら、登場人物がすべて藤原であることになる。この時代以降、藤原氏は朝廷の支配が届きにくい地域においての在地勢力との融合(血縁関係など)が加速したものと思われる(平泉の奥州藤原氏はその際たるものである)。私案抄に記載された国司の乱と同じ舞台である武蔵の国では、武力組織を起源とする源氏の武士が頭角をあらわし、武力による統治に優れた時代に進んだものと思われる。
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私案抄 国立国会図書館デジタルコレクション 10ページ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533513
私案抄を書き残した僧「長辨(じょうべん・長辯とも)」は永享八年(一四三六)に深大寺の宝冠阿弥陀如来像を修補し、その際に胎内に墨書を残したとされる。武蔵野国司蔵宗の乱が起きて500年程度も後の時代で、私案抄の成立はこの前後の事と思われる。
私案抄のテキスト化したものや、現代訳文はこの記事を書いている時点では見あたらない。「狛江市史料集 第1」から私案抄の原文のページをスキャンしたものをアップした(クリックで拡大)。