藤原 氏宗(ふじわら の うじむね)
弘仁元年(810年)- 貞観14年2月11日(872年3月23日)
平安時代前期の公卿、宮廷政治家。藤原北家、中納言・藤原葛野麻呂の七男。
最終官位は正三位・右大臣、贈正二位。
母の父は和気清麻呂(わけのきよまろ)
最終官位は従三位(行民部卿兼造宮大夫美作備前国造)、贈正三位。
天安2年(858年)清和天皇の即位後に正四位下へ叙せられる。
貞観元年(859年)従三位、また同年藤原基経の異母妹で後宮に
出仕していた藤原淑子と結婚する。清和朝では、貞観3年(861年)
先輩の参議で後に左大臣にまで昇る嵯峨源氏の源融を越えて
中納言となると、同じく嵯峨源氏の大納言源定・源弘の薨去もあり、
貞観6年(864年)権大納言、貞観9年(867年)正三位・大納言
と目覚ましい昇進を遂げ、貞観12年(870年)右大臣に至った。
なお、この急速な昇進の背景には後宮の実力者であった妻・淑子
の影響もあったとされる。清和天皇の命により、
貞観11年(869年)に『貞観格』を、貞観13年(871年)には
『貞観式』を選上。また貞観永宝の鋳造にも関わり、貞観の治と
呼ばれる同天皇の治世に大いに貢献した。(wikipedia)
右大臣に在任中の貞観14年(872年)2月11日薨御。
死後正二位を贈られており、もしも弟である藤原安棟が事件を起こしていたと
したら死後の贈正二位は無いように思える。
(詳しくは無いが、この頃、連座制が廃止されていたとも思われ、兄弟の事件に無関係であったとしても不思議では無い。)
また、弟である藤原安棟の出世(貞観9年から武蔵守)に影響を与えなかったとは考えにくい。兄が貞観14年に亡くなったことで藤原安棟だけでなく一族は混乱したものと思われる。
※藤原淑子から見れば本来、出世していた夫が亡くなったことで没落の恐怖を感じているはずだが、腹違いの兄弟である基経が氏宗が亡くなって空席であった右大臣に昇格。立場上、氏宗は応天門の変に深く関わったであろうから、亡くなるタイミングに違和感を感じる。氏宗が前妻との間に生んだ4人の男子はさしたる出世はしていないようだ。いずれにしても、淑子から見れば亡くなった夫の兄弟である安棟の心配などしている場合では無いと思われ、むしろ、安棟が兄の七光りで出世していたとしたら、追い落とす勢力に回ったとしても不思議ではない。
「もともと淑子と氏宗の間には子がなく(淑子は後妻)、また淑子は氏宗と先妻との間の子には冷淡であったというから、遍真のような氏宗の後裔は円成寺内で冷遇されていた。」円成寺跡(大豊神社)http://www.kagemarukun.fromc.jp/page027.html